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何故か最後に嗚咽してしまいました。ありがとうございました。
嬉しいです🌸私もコメントに感動です!ありがとうございます😊
本当にこのチャンネルの大ファンです。❣️見方が温かい。おっしゃる通り、融合、融合の歴史が我が国、日本ですよね。誰かがやって来て先住の民を追い払い、支配・被支配という構造にはしなかった。新しくやって来た人たちを客人として受け入れ、ウケヒを行い、常に同族となって行きます。縄文はずっと政権の中に流れています。【出雲王国と天皇政権】とは、【出雲王国とヤマト政権】のリニューアルでしょうか?!著者も富士林雅紀さんから斎木雲州さんに変わっていますね。出雲口伝の中にも本によって若干の違いが見られますが、永い永い年月と膨大な情報量を考えれば、あって当然です。その中で大きな流れを感じとることがとても重要であり、見えなかった世界がパッと開けてゆく感覚を味わいますね。いつも素敵な動画をありがとうございます♪
とても嬉しいです🌸コメントありがとうございます🌈
mayumi3300🌻様、『出雲王国と天皇政権』の本は、お話の様に、作者は富士林雅樹氏から斎木雪州氏となっていますが、初版年は一緒でしたので、『出雲王国と大和政権』の改訂版の様です。最終章の百襲姫の章の次に、蘇我氏の章が追加された様でしたが、自分の見た本には残念ながら追加されておらず?でした。久しぶりに読みましたが、相変わらず良い本ですね。物部氏の子孫のお話になりますが、秋田物部氏の伝承では、蘇我に追われて、秋田に逃げて来た。という伝承があると、以前唐松神社の動画を出されていた、むすび大学の茂木先生のお話もありましたが、この辺りも面白いと思います。茂木先生の御紹介では、長髄彦の兄弟の安日彦アビヒコが東北津軽に逃れ、安東氏から九州に流されて松浦党となり、山口に移り安倍氏となり安倍元首相の祖先となった。との説がある。と、大きくは、安日彦の子孫が岩手のあたりの武士団となり、前九年の役で朝廷から睨まれ、二手に分かれ、一方は青森の安東氏となり、日本海貿易で栄え、現ロシア領の沿海州(えんかいしゅう、ロシア語: Примо́рьеプリモーリイェ)州都はウラジオストクあたりの極東ロシアで当時の金(女真族)と交易、十三湖(とさ港)を拠点とし、日本海沿岸の内海の良港として栄えた。時代は平安、鎌倉あたり。の時代。もう一方は前九年後三年の役で安東氏のリーダーが八幡太郎源義家につかまって、京都から降伏したとして死罪を免れ北九州に流され松浦党に保護され、山口に移りその子孫が安倍晋三元首相になっていく。というお話でした。安日彦とはもともとの安倍氏となった大彦のことでしょうけれど、記憶はほぼ同じなのでしょうね。茂木先生は出雲口伝については、話すと混乱するから、一旦置いておいてw、、と言われましたが、笑、この辺りは出雲の伝承とほぼぴったりと重なります。秋田や青森の女性の中には、とても肌の白い、たぶん先祖が白人と混血したではないかと思えるような女性が少なからずいますが、平安、鎌倉時代には奴隷として連れて行かれたのではなく、実際に交易していた歴史があるようです。混血も当然あったのだろうと思います。とても面白いですね。
@@nihontaro9 さまコメントありがとうございます♪ヤマト政権から天皇政権へと変えたのは、やはり、意味があるのでしょうね。著者も変更されているのはどういった背景かは分かりませんが、口伝は共有されながらも、どうしても個々のフィルターは通りますけど、まあ、それが人間ってことですしね。【ヤマト政権とは何ぞや】ってことでしょうね。どの角度から見るか…ということだと思います。村雲が徐福の孫であっても、大国主のひ孫ですし、タタラ五十鈴姫は事代主の娘。思いっきり出雲政権とも言えます。クシヒカタを祖とする賀茂氏は、現在でも国家の祭祀を請け負っている裏の天皇家であることは事実であるし、伊勢と賀茂と三輪の祭祀は元を同じくするものであるし…更には、継体天皇ですからね。出雲はずっとど真ん中に居続けており、もっと言えば、出雲も先住の縄文人と融合して王国を造るまでに繁栄していったでしょう。ずっとつながっている悠久のときと大きなイノチの流れを感じます。ヤマトを追い出された感のある大彦たちも、その後の子孫たちの繁栄を見れば、北陸から東北更に関東の大部分にその痕跡と影響を大きく残したやはりヒーローだったと思います。こういうのを見ますと、全てが愛おしいそれぞれのドラマが、各地で展開されながら、世界を創ってゆくのだなあ…と思いました。安倍首相が大彦の故郷に戻り、旅立たれたのも凄い因果ですね。
@@mayumi3300🌻様、その通りですね。大彦についても、恐らく物部氏の伝承の旧事本記に書いてあるのかどうかまでは分かりませんが、茂木先生のお話と、出雲口伝の内容とでは、大彦や安倍氏について、年代は大きく異なりますが、物部に追われて東北に逃げて安倍王国として、ロシアとも交易して栄え、また九州から山口へ移り総理大臣まで輩出するまでになった。という本筋は変わりませんね。リアルな歴史であった。ということが分かりゾクゾクします。
お疲れさまです、堺市へ行かれたんですね^^今回のご投稿、すごい神社が勢ぞろい!繋がりますね...大元出版の書籍、読みました。妄想が広がります。IRIS様の考察、ありがとうございます^^
神社、見せてもらいましたね😊 ありがとうございました🍀抑えて、抑えて、作っても 内容が凄いのでマニアックになってしまいます💦いつもありがとうございます😊🌸うれしいです!
今回は前半と後半で記紀に基づく話と出雲口伝による話と対比する形で動画が構成されており、対比が分かりやすかったです。大田田根子と太田タネヒコ。太田タネヒコが物部東征を導きいて大和の混乱を治めた。モモソ姫は太田家の娘でヒミコとなる。大和旧勢力と物部との対立は銅鐸シンボルとするサイノ神信仰か神獣鏡をシンボルとする銅鏡神崇拝の違い。登美家の人は木津川(南山城国)付近へ移住した。物部勢は大和を離れた賀茂家(登美家)には攻撃を加えなかった。戦闘から平和の回復への過程が語られているのですね。口伝の中に他国の文書に記載されている内容が含まれている点などが気になりますが、出雲の口伝で語り部がつたえたかったことは、IRISさんが伝えたと思います。出雲族の人たちは暦をどうしていたのでしょうかね?1年の数え方をどうしたという記載があれば教えてください。
一年で二つ歳をとります。春と秋に祝います😊
IRISさん、いつも楽しみにしております。今回も深いお話をありがとうございます🙏✨大彦さま(長髄彦さま)は兄弟で継承争いの状況にあったのですか。大彦さまは、出雲国を分裂したくはなかったから自ら身をひいたのでしょうか。出雲王国は武力ではなく愛と精神の国。その代々の思いを引き継いで、民のことを大切にしていたのだと思います。ウマシマジさまは長髄彦の甥ですが、そこは民を守るために戦った。太田タネヒコさまの役割は融合をもたらしたのですね。ただ勝者に都合よく書いてあるであろう日本書紀で、太田タネコさまのことをヒーローのように書いてあることに意味があるのではないかとも考えてしまいます。神武天皇を導いた金鵄は猿田彦さまや八咫烏と言われていますが、本当は誰のことなのか。長髄彦さま達が生気をなくしたということは、信頼していた人が神武天皇についた、というように感じます。融合のために仕方がなかったことが沢山あったと思いますが、そういうご先祖さまたちの辛い思いがあって今があることを忘れてはならないと思いました。
今となっては日本での歴史上の先人は、ご先祖様ですね。皆、いい未来を願って生きてきたのですね🌈こちらこそ深くありがとうございます😊嬉しいです🌸
近々お伺いしたいと思っている神社です(●´ω`●)私は日本書紀からですが、歴史に學び、大和道を顔晴っていきまっしょい(*>∇<)ノ桜咲き 鳥、人ともに 春憩うこの川ノ辺を 忘れじと想う
良い神社です😊とても綺麗にされています。本殿の彫り物に目を見張ります。太田田根子命は要の方ですね。素敵なコメントありがとうございます😊とてもとても嬉しいです🌸
百襲姫は熊襲の姫、呉の水軍に連れられて畿内にきました。熊襲は熊楚、楚の王は代々熊の字があります。
色々な説がありますね。ありがとうございます😊
@@irisyell6626 孫権の時代に亶州探索がありました、風に流され紀州に上陸した一団、そこで暮らすことになりました。孫権の時代の赤烏年号の三角縁人獣鏡が発掘されています。赤烏とは太陽にある三本足の烏、日本神話ではヤタガラスになってます😃
@@スボ-l7p さま興味深いですね。ありがとうございます😊
大田タネコさんだったら、女性ぽいですね。伊勢遺跡や唐子鍵遺跡の人口が1000人程度なので、、、大彦命=伊都国王=大国主だったら、整合性ありそうな?なさそうな?w佐々神社参拝しましたよ。
佐々神社、参拝したいです😊ロマンですね💦ありがとうございます😊嬉しいです🌸
@@irisyell6626 伊賀栗と言うので、マロンかも(笑)
@@trinitydisconnect 様アッ マチガッタ💦😊 嬉しいです🌸
太田田根子も系統分かりずらく隠されてますよね。たぶん、11代出雲振根の兄弟親戚筋じゃないですかね?多分の多分、崇神の兄弟の彦坐王の八瓜入彦王が崇神に殺されかけて、茨木、香取まで逃げてる口伝とかありますね。長幡部の祖の神社がちゃんと残ってて、明治の時祭神の名前を強引に替えられたみたいです。大日本根子彦〇〇皇尊。天皇家が大きく分かれて行った分岐点だと思う。でも、消されてるはずの一族も、こっそり生き抜いて名前を継承してるんですよね。崇神も、自分が虐殺した一族に助けを求めなくてはならなくなった・・って話しじゃないですかね?あー。物部の戦い方は細い一本道!途中隠れて攻撃するんですよね。同じようなのが全国に残ってるのが凄いですね。
大田田根子は何を考え行動したのでしょうか、とよく考えます💦未来に向けての人々の幸せを願ってなら、嬉しいです🌸ありがとうございます😊
太田タネコは富美家の分家なのに、物部勢を大和に引き入れてしまったのですか。それは裏切りでしょうか。
その人の立場や思い方や見方でとらえ方は変わりますよね😊富家にとれば裏切りです。大和国の動乱は沈静化しました。おおたたねこは、その時、何を思い描いたか聞いてみたいですね。コメントありがとうございます😊🌸
@@irisyell6626 返信ありがとうございます。そうですね、太田タネコに聞いてみたい。まあ、その当時支配してたのは大和国なので、富家というよりも、支配してる大和国を応援できなかったのか。出雲口伝は知らなかったにで、一昨日からはまりっぱなしです。「出雲と蘇我王国」も早速入手して半分読んだとこです。今後とも動画を楽しまさせていただきます。
@@taromoritova7972 さま同感です😊はまりますよね。ありがとうございます😊嬉しいです🌸
神話(官製偽書)の大田田根子。そもそも、 「根子」。は、出雲系の大王、天皇陛下の称号。根。は出雲の幸の神信仰(原神道)の最高神、主神である久那斗大神。の形代(シンボル)の一つ。この事をベースに出雲系の貴人(神)たちに本来はない根を付与したりしていますと、言う事から、記紀の言う大田田根子。は大和王国の大王だったお方。誰か、官製偽書、古事記ですが半分程度は捏造改ざんしかし、残りにはいきなり真実が盛り込まれたり、比喩、暗喩で真実をなんとか、知らしめたい記述者、柿ノ本人麿の意図が隠されています。大田田根子はまた、八咫烏。物部王家軍(神武軍に化けた)が進退に窮していた熊野の深山幽谷(現在の熊野本宮大社の一帯)に配下と共に赴いて大和への道案内を申し出てた。四面楚歌、進退に窮していた物部王家軍としては渡りに船。是非もなく、、、先頭先陣を黒ずくめの彼らがまるで飛ぶが如く軽やかに物部王家軍の大軍を誘導する姿や大和のトビ家。と名乗った事等から物部らは祖の徐福以来信仰する道教の太陽に棲むと言う伝説の三足烏、八咫烏を想起したて彼、彼らを八咫烏。と呼んだという。熊野から吉野の険しい獣道ともつかぬ隘路の行軍には辟易したものの、ほぼ無傷のままに吉野川、紀ノ川を渡り大和の磐余に無事着陣した。初戦で撃退した筈の物部の大軍がいきなり再来した事に大和王国海(あま)王朝の大王家、王族や豪族たちは驚天動地、青天の霹靂に浮き足だち、物部軍はそれらに各個別に追撃を加え旧大和王国海王朝勢を大和から一掃してさらに追撃を加えた。その間隙を縫って漁夫の利を得た形の登美の大田多祢彦(大田田根子)は三輪山方面に進出するとちゃっかり大王に即位した。三輪大王。と呼ばれた。荒ぶる物部らを懐柔するため、大王后には物部の王女を迎えいれた。三輪山の祭主、姫巫女には彼の姉、登美(向)の百襲日女命が新たに就任した。この際物部らは出雲族の信仰とシンボルの所謂、銅鐸を手当たり次第に破壊して回った。代わりに道教に由来する平縁の青銅製の神獣円鏡を拝礼することを強要した。為に、出雲族と侵略者、物部らとの関係は険悪となり宗教戦争に発展して混乱、混迷を究めた。↑を架空捏造の崇神天皇の行に疫病が蔓延して人民は疲弊して遊離した云々~大田田根子を捜索~三輪山の神主としたと誤魔化した。と言うことで?大田田根子は所謂系図の孝元天皇である事がわかります。この激しい宗教戦争を見事に収束させた(瀬織した)のが登美(向)の百襲日女命。彼女の偉大な瀬織の業績を称えたのが瀬織津日女命。
長文ありがとうございます😊嬉しいです🌸
登美の向津姫ですね👸
何故か最後に嗚咽してしまいました。ありがとうございました。
嬉しいです🌸
私もコメントに感動です!
ありがとうございます😊
本当に
このチャンネルの大ファンです。❣️
見方が温かい。
おっしゃる通り、
融合、融合の歴史が
我が国、日本ですよね。
誰かがやって来て
先住の民を追い払い、
支配・被支配という
構造にはしなかった。
新しくやって来た人たちを
客人として受け入れ、
ウケヒを行い、
常に同族となって行きます。
縄文はずっと
政権の中に流れています。
【出雲王国と天皇政権】とは、
【出雲王国とヤマト政権】の
リニューアルでしょうか?!
著者も
富士林雅紀さんから
斎木雲州さんに
変わっていますね。
出雲口伝の中にも
本によって
若干の違いが見られますが、
永い永い年月と
膨大な情報量を考えれば、
あって当然です。
その中で
大きな流れを感じとることが
とても重要であり、
見えなかった世界が
パッと開けてゆく感覚を
味わいますね。
いつも素敵な動画を
ありがとうございます♪
とても嬉しいです🌸
コメントありがとうございます🌈
mayumi3300🌻様、
『出雲王国と天皇政権』の本は、お話の様に、作者は富士林雅樹氏から斎木雪州氏となっていますが、初版年は一緒でしたので、『出雲王国と大和政権』の改訂版の様です。
最終章の百襲姫の章の次に、蘇我氏の章が追加された様でしたが、自分の見た本には残念ながら追加されておらず?でした。久しぶりに読みましたが、相変わらず良い本ですね。
物部氏の子孫のお話になりますが、秋田物部氏の伝承では、蘇我に追われて、秋田に逃げて来た。という伝承があると、以前唐松神社の動画を出されていた、
むすび大学の茂木先生のお話もありましたが、この辺りも面白いと思います。
茂木先生の御紹介では、
長髄彦の兄弟の安日彦アビヒコが東北津軽に逃れ、安東氏から九州に流されて松浦党となり、山口に移り安倍氏となり安倍元首相の祖先となった。
との説がある。と、
大きくは、安日彦の子孫が岩手のあたりの武士団となり、前九年の役で朝廷から睨まれ、二手に分かれ、一方は青森の安東氏となり、日本海貿易で栄え、
現ロシア領の沿海州(えんかいしゅう、ロシア語: Примо́рьеプリモーリイェ)州都はウラジオストクあたりの極東ロシアで当時の金(女真族)と交易、
十三湖(とさ港)を拠点とし、日本海沿岸の内海の良港として栄えた。時代は平安、鎌倉あたり。の時代。
もう一方は前九年後三年の役で安東氏のリーダーが八幡太郎源義家につかまって、京都から降伏したとして死罪を免れ北九州に流され松浦党に保護され、
山口に移りその子孫が安倍晋三元首相になっていく。というお話でした。
安日彦とはもともとの安倍氏となった大彦のことでしょうけれど、記憶はほぼ同じなのでしょうね。
茂木先生は出雲口伝については、話すと混乱するから、一旦置いておいてw、、と言われましたが、笑、この辺りは出雲の伝承とほぼぴったりと重なります。
秋田や青森の女性の中には、とても肌の白い、たぶん先祖が白人と混血したではないかと思えるような女性が少なからずいますが、
平安、鎌倉時代には奴隷として連れて行かれたのではなく、実際に交易していた歴史があるようです。混血も当然あったのだろうと思います。
とても面白いですね。
@@nihontaro9 さま
コメント
ありがとうございます♪
ヤマト政権から
天皇政権へと変えたのは、
やはり、意味があるのでしょうね。
著者も変更されているのは
どういった背景かは
分かりませんが、
口伝は共有されながらも、
どうしても個々のフィルターは
通りますけど、
まあ、それが人間ってことですしね。
【ヤマト政権とは何ぞや】
ってことでしょうね。
どの角度から見るか…
ということだと思います。
村雲が徐福の孫であっても、
大国主のひ孫ですし、
タタラ五十鈴姫は
事代主の娘。
思いっきり
出雲政権とも言えます。
クシヒカタを祖とする
賀茂氏は、
現在でも国家の祭祀を
請け負っている
裏の天皇家であることは
事実であるし、
伊勢と賀茂と三輪の祭祀は
元を同じくするものであるし…
更には、
継体天皇ですからね。
出雲はずっと
ど真ん中に居続けており、
もっと言えば、
出雲も先住の縄文人と融合して
王国を造るまでに繁栄していったでしょう。
ずっとつながっている
悠久のときと
大きなイノチの流れを感じます。
ヤマトを追い出された感のある
大彦たちも、
その後の子孫たちの繁栄を見れば、
北陸から東北
更に関東の大部分に
その痕跡と影響を
大きく残した
やはりヒーローだったと思います。
こういうのを見ますと、
全てが愛おしい
それぞれのドラマが、
各地で展開されながら、
世界を創ってゆくのだなあ…
と思いました。
安倍首相が
大彦の故郷に戻り、
旅立たれたのも
凄い因果ですね。
@@mayumi3300🌻様、
その通りですね。大彦についても、恐らく物部氏の伝承の旧事本記に書いてあるのかどうかまでは分かりませんが、茂木先生のお話と、出雲口伝の内容とでは、大彦や安倍氏について、年代は大きく異なりますが、物部に追われて東北に逃げて安倍王国として、ロシアとも交易して栄え、また九州から山口へ移り総理大臣まで輩出するまでになった。という本筋は変わりませんね。リアルな歴史であった。ということが分かりゾクゾクします。
お疲れさまです、堺市へ行かれたんですね^^
今回のご投稿、すごい神社が勢ぞろい!繋がりますね...
大元出版の書籍、読みました。妄想が広がります。IRIS様の考察、ありがとうございます^^
神社、見せてもらいましたね😊 ありがとうございました🍀
抑えて、抑えて、作っても 内容が凄いのでマニアックになってしまいます💦
いつもありがとうございます😊🌸うれしいです!
今回は前半と後半で記紀に基づく話と出雲口伝による話と対比する形で動画が構成されており、対比が分かりやすかったです。大田田根子と太田タネヒコ。太田タネヒコが物部東征を導きいて大和の混乱を治めた。モモソ姫は太田家の娘でヒミコとなる。大和旧勢力と物部との対立は銅鐸シンボルとするサイノ神信仰か神獣鏡をシンボルとする銅鏡神崇拝の違い。登美家の人は木津川(南山城国)付近へ移住した。物部勢は大和を離れた賀茂家(登美家)には攻撃を加えなかった。戦闘から平和の回復への過程が語られているのですね。口伝の中に他国の文書に記載されている内容が含まれている点などが気になりますが、出雲の口伝で語り部がつたえたかったことは、IRISさんが伝えたと思います。出雲族の人たちは暦をどうしていたのでしょうかね?1年の数え方をどうしたという記載があれば教えてください。
一年で二つ歳をとります。
春と秋に祝います😊
IRISさん、いつも楽しみにしております。今回も深いお話をありがとうございます🙏✨
大彦さま(長髄彦さま)は兄弟で継承争いの状況にあったのですか。大彦さまは、出雲国を分裂したくはなかったから自ら身をひいたのでしょうか。出雲王国は武力ではなく愛と精神の国。その代々の思いを引き継いで、民のことを大切にしていたのだと思います。
ウマシマジさまは長髄彦の甥ですが、そこは民を守るために戦った。
太田タネヒコさまの役割は融合をもたらしたのですね。ただ勝者に都合よく書いてあるであろう日本書紀で、太田タネコさまのことをヒーローのように書いてあることに意味があるのではないかとも考えてしまいます。
神武天皇を導いた金鵄は猿田彦さまや八咫烏と言われていますが、本当は誰のことなのか。長髄彦さま達が生気をなくしたということは、信頼していた人が神武天皇についた、というように感じます。
融合のために仕方がなかったことが沢山あったと思いますが、そういうご先祖さまたちの辛い思いがあって今があることを忘れてはならないと思いました。
今となっては日本での歴史上の先人は、ご先祖様ですね。
皆、いい未来を願って生きてきたのですね🌈
こちらこそ深くありがとうございます😊
嬉しいです🌸
近々お伺いしたいと思っている神社です(●´ω`●)
私は日本書紀からですが、歴史に學び、大和道を顔晴っていきまっしょい(*>∇<)ノ
桜咲き 鳥、人ともに 春憩う
この川ノ辺を 忘れじと想う
良い神社です😊
とても綺麗にされています。本殿の彫り物に目を見張ります。
太田田根子命は要の方ですね。
素敵なコメントありがとうございます😊
とてもとても嬉しいです🌸
百襲姫は熊襲の姫、呉の水軍に連れられて畿内にきました。
熊襲は熊楚、楚の王は代々熊の字があります。
色々な説がありますね。ありがとうございます😊
@@irisyell6626 孫権の時代に亶州探索がありました、風に流され紀州に上陸した一団、そこで暮らすことになりました。孫権の時代の赤烏年号の三角縁人獣鏡が発掘されています。赤烏とは太陽にある三本足の烏、日本神話ではヤタガラスになってます😃
@@スボ-l7p さま
興味深いですね。ありがとうございます😊
大田タネコさんだったら、女性ぽいですね。伊勢遺跡や唐子鍵遺跡の人口が1000人程度なので、、、
大彦命=伊都国王=大国主だったら、整合性ありそうな?なさそうな?w
佐々神社参拝しましたよ。
佐々神社、参拝したいです😊
ロマンですね💦
ありがとうございます😊嬉しいです🌸
@@irisyell6626 伊賀栗と言うので、マロンかも(笑)
@@trinitydisconnect 様
アッ マチガッタ💦😊 嬉しいです🌸
太田田根子も系統分かりずらく隠されてますよね。
たぶん、11代出雲振根の兄弟親戚筋じゃないですかね?
多分の多分、崇神の兄弟の彦坐王の八瓜入彦王が崇神に殺されかけて、茨木、香取まで逃げてる口伝とかありますね。
長幡部の祖の神社がちゃんと残ってて、明治の時祭神の名前を強引に替えられたみたいです。
大日本根子彦〇〇皇尊。天皇家が大きく分かれて行った分岐点だと思う。
でも、消されてるはずの一族も、こっそり生き抜いて名前を継承してるんですよね。
崇神も、自分が虐殺した一族に助けを求めなくてはならなくなった・・って話しじゃないですかね?
あー。物部の戦い方は細い一本道!途中隠れて攻撃するんですよね。同じようなのが全国に残ってるのが凄いですね。
大田田根子は何を考え行動したのでしょうか、とよく考えます💦
未来に向けての人々の幸せを願ってなら、嬉しいです🌸
ありがとうございます😊
太田タネコは富美家の分家なのに、物部勢を大和に引き入れてしまったのですか。それは裏切りでしょうか。
その人の立場や思い方や見方でとらえ方は変わりますよね😊
富家にとれば裏切りです。
大和国の動乱は沈静化しました。
おおたたねこは、その時、何を思い描いたか聞いてみたいですね。
コメントありがとうございます😊🌸
@@irisyell6626 返信ありがとうございます。そうですね、太田タネコに聞いてみたい。まあ、その当時支配してたのは大和国なので、富家というよりも、支配してる大和国を応援できなかったのか。出雲口伝は知らなかったにで、一昨日からはまりっぱなしです。「出雲と蘇我王国」も早速入手して半分読んだとこです。今後とも動画を楽しまさせていただきます。
@@taromoritova7972 さま
同感です😊はまりますよね。
ありがとうございます😊嬉しいです🌸
神話(官製偽書)の
大田田根子。
そもそも、 「根子」。
は、出雲系の大王、天皇陛下の称号。
根。は出雲の幸の神信仰(原神道)の
最高神、主神である
久那斗大神。
の形代(シンボル)の一つ。
この事をベースに
出雲系の貴人(神)たちに本来はない
根を付与したりしています
と、言う事から、
記紀の言う
大田田根子。
は
大和王国の大王だったお方。
誰か、
官製偽書、古事記ですが
半分程度は捏造改ざん
しかし、残りにはいきなり真実が盛り込まれたり、
比喩、暗喩で真実をなんとか、知らしめたい記述者、
柿ノ本人麿の意図が隠されています。
大田田根子は
また、八咫烏。
物部王家軍(神武軍に化けた)が進退に窮していた
熊野の深山幽谷
(現在の熊野本宮大社の一帯)に
配下と共に赴いて
大和への道案内を申し出てた。
四面楚歌、進退に窮していた
物部王家軍としては
渡りに船。
是非もなく、、、
先頭先陣を
黒ずくめの彼らが
まるで飛ぶが如く軽やかに
物部王家軍の大軍を誘導する姿や
大和のトビ家。と名乗った事等から
物部らは祖の徐福以来信仰する
道教の太陽に棲むと言う伝説の三足烏、
八咫烏を想起したて
彼、彼らを八咫烏。
と呼んだという。
熊野から吉野の険しい獣道ともつかぬ
隘路の行軍には辟易したものの、
ほぼ無傷のままに吉野川、紀ノ川を渡り
大和の磐余に無事
着陣した。
初戦で撃退した筈の物部の大軍がいきなり
再来した事に
大和王国海(あま)王朝の
大王家、王族や豪族たちは驚天動地、
青天の霹靂に浮き足だち、
物部軍は
それらに各個別に追撃を加え
旧大和王国海王朝勢を大和から一掃して
さらに追撃を加えた。
その間隙を縫って
漁夫の利を得た形の
登美の大田多祢彦(大田田根子)は
三輪山方面に進出すると
ちゃっかり大王に即位した。
三輪大王。と呼ばれた。
荒ぶる物部らを懐柔するため、
大王后には物部の王女を迎えいれた。
三輪山の祭主、姫巫女には
彼の姉、
登美(向)の百襲日女命が新たに就任した。
この際
物部らは出雲族の信仰とシンボルの
所謂、銅鐸を手当たり次第に破壊して回った。
代わりに
道教に由来する平縁の青銅製の神獣円鏡を拝礼することを強要した。
為に、出雲族と侵略者、物部らとの関係は険悪となり
宗教戦争に発展して混乱、混迷を究めた。
↑を架空捏造の崇神天皇の行に
疫病が蔓延して人民は疲弊して遊離した云々~
大田田根子を捜索~三輪山の神主とした
と
誤魔化した。
と言うことで?
大田田根子は
所謂系図の孝元天皇である事がわかります。
この激しい宗教戦争を見事に収束させた(瀬織した)のが
登美(向)の
百襲日女命。
彼女の偉大な瀬織の業績を称えたのが
瀬織津日女命。
長文ありがとうございます😊嬉しいです🌸
登美の向津姫ですね👸